昭和一桁生まれの祖父母と平成一桁生まれの私の思い出

190815昭和一桁生まれの祖父母と平成一桁生まれの私 雑記
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お盆の時期,皆さんはいかがお過ごしですか。過日,父方の祖母を亡くした私は珍しくお盆の真っただ中に帰省しています。

2019年,「昭和一桁(1926~1934年)生まれ」の人は,85~93歳となります。人口統計学のデータである厚生労働省の第22回生命表(完全生命表)を読み解けば,この世代の死亡率は男女ともかなり高いです。

私の祖父母はこの世代です。そして,2018年に母方の祖父,2019年に父方の祖母を亡くしました。

この時代の人は,10代の多感な時期を太平洋戦争のもとで過ごしています。私の前では当時の話を一切しないまま帰らぬ人となってしまいましたが,祖父は軍の主要施設がある街で育ったので,恐ろしい思い出などもあったことでしょう。

2019年に22~30歳となる「平成一桁(1989~1997年)生まれ」の私の10代の頃といえば,インターネットと携帯電話が大いに普及した時代です。世代によって本当に違う環境を生きてきたことを実感します。

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祖父母と私の思い出

亡くなった二人のことを父や母から聞くには,祖父は東京の大学を出て都内に就職し,祖母は私の実家にて主婦業のかたわら,華道や茶道を教えていたようです。私が物心つく頃には2人とも第一線を退き,セカンドライフを楽しんでいました。

上機嫌に老いた祖父,楽しい記憶の中に生きた祖母

「老い」は祖父母とも悲惨なものではなく,どこか幸せで楽しそうな様子に私からは見えました。

祖父にとって私は初孫でした。晩酌が好きだった祖父は,私が生まれた頃から,いずれ一緒にお酒を飲みかわす日を心待ちにしていたようです。事実,私が20歳を迎えたときに,祖父は「一緒にお酒が飲めるなんて」と上機嫌だったのが思い出されます。

私が18歳の頃にがんを患いましたが肝臓は丈夫で,がんの発覚から約9年間,亡くなる半年前まで,ときどき行きつけの寿司店でお酒を飲み交わしたのはよい思い出です。たくさん酒の席を一緒に過ごせたのは,孫のなかで一番早く生まれた私の特権でした。

他にも,アサリと長ネギが入った東京の郷土料理「深川めし」が好みだったようで,その影響で私も帰省や出張などの際に駅弁を買ってよく食べています。そのたびに祖父を思い出しています。

祖母は多趣味な人で,華道・茶道のほかにも水彩画では地域の展覧会で入賞するなどの実力を持っていたようです。戦中に建てた広い屋敷の縁側で,スイセンや果物といった静物画を描いていたのが幼少期の私の記憶に残っています。同じ敷地に私の実家があるので,子どものころは遊びに行ってよくお菓子をもらっていました。

この10年ほどは認知症を発症し,同じ話ばかりを繰り返していたようですが,幸いにも根がとても明るい祖母は楽しそうに語るので,認知症を発症してからは毎日笑顔が絶えなくなりました。数年前のある夏の夜,同じ話を何十回と聞きながら,田舎町の満天の星空を祖母と二人で一緒に眺めたのは,今となっては私だけが知る思い出となりました。

星空を眺めるのが趣味の私にとっては,ときどき祖母を思い出す機会となっています。

怒りながら亡くなった祖父,笑いながら亡くなった祖母

まだ何者でもない私にとても良くしてくれた祖父と祖母ですが,その最期は対照的なものでした。

祖父は亡くなる半年前に,十年来の肺がんの転移が発覚し,だんだんと容態が悪化しました。認知機能も急速に低下し,亡くなる3か月ほど前には妻(私から見ると,母方の祖母)の手には負えなくなりました。介護施設へ入居することになったのですが,それがとても嫌だったようです。

病気や老化でできないことが増え,ふさぎ込んだり,怒りを爆発させたりする日が続きました。周りの世話を借りないと何もできない自分に嫌気がさして,周りに対して余計に攻撃的になる悪循環でした。亡くなる1週間前に見舞いに訪問した私が最期に聞いた言葉は「早く死にたい」「苦しいから早く死なせてくれ」というものでした。

医療の知識をある程度持っているとはいえ,祖父が放つ負のエネルギーを目の当たりにすると私は何もすることができませんでした。

一方の祖母は認知症が進むにつれて,庭の植物の手入れだけでなく,持病の糖尿病・心臓病の管理ができなくなりました。医者嫌いも手伝って「病識のまったくない病人」となったようです。

最期はある日の明け方で,トイレの前に置いた椅子に座った状態で冷たくなっているのを夫(私から見ると,父方の祖父)に発見されました。私の祖父によれば,前夜は同じ部屋で就寝し,確かに夜中にトイレに起きたような記憶があったとのことです。

たまたま亡くなる1週間前に帰省していた私は,祖母の家のキッチンに明かりがともる,いつもの生活の様子を見ていました。祖母は最期の瞬間まで他人の手を大きく煩わせることもなく,自分が病気であることすら知らずにあの世へ旅立ったのでした。

普段は自分の「死」を考える機会はまずありません。逝き方に理想も何もありませんが,ともに幸せの中で老い,そして対照的な最期を遂げた二人から,私は「どのように生き,亡くなるべきか」という長期的な宿題を得たような気分です。

昭和を生きた祖父母と,令和を生きる私たち

「もはや戦後ではない」と題した有名な経済白書が出されたのは今から63年前の1956年です。つまり,当時「昭和一桁生まれ」の人たちは,今の「平成一桁生まれ」の私たちと同じ22~30歳の頃でした。

平成時代には社会科の教科書に載っていた「三種の神器(白黒テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」や「3C(カラーテレビ,クーラー,自動車)」などが普及した時期と重なります。給与も物価も上がり,日本の経済・人口もどんどん大きくなった時代でした。

一方で,当時は今と比べて生き方の選択肢は少なく,情報の発信や交換はかなり難しい時代でした。今から見ると個々人の自由には制約が多い生活に見えます。ただし,その中でも人生を謳歌し,自分や子ども,孫の成長を願い,喜ぶ様子がそこにはありました。

さて,昭和・平成を経て,豊かさが社会の大部分まで浸透した令和時代は,モノと情報にあふれています。モノがないところから始まり,戦禍で全てが破壊された昭和よりも良い社会であることは間違いありません。

労働による可処分所得がなかなか増えない時代ですが,たとえばインターネットで誰とでもつながることができ,こうしてブログで発信して共有することもできます。

昭和を生きた人たちが築いた土台に感謝しつつ,さらにその上に,令和を生きる私としてもバトンの一部を次の時代につないでいければと思います。

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